思春期⑤
~智恵理ルート・14話
※ネタバレあり
智恵理ちゃんの両親の死の真相と、彼女がどうして両親の死にあそこまでの罪悪感を持つようになったのか…
そのすべてが白日の下に晒されることとなった
それは…辛いよなぁ、ちえりん…
ただでさえ望まない別れだったのに、そんな風に(本心ではないとはいえ)寂しさからくる恨み言をぶつけた直後に帰らぬ人になってしまわれたんだから、気持ちのやり場がないってもんよなぁ…
これは多分に難しい問題だとは思うし、全部の家族に当てはまる普遍的な事柄かって聞かれるとイエスとも言えないんだけども、いくら家族だからって言っていいことと悪いことっていうのは確かに存在する、存在するとした上で、よほどのことでない限りはどの他人との間に構築できる関係性よりも修復することは難しくない…と、わたしは常々考えてるわけだ
信仰に近い、と言い替えてもいい
わたしが家族という一つの塊に求めているものは、何人にも侵されることのない安心感と安定性で、それはもう一種の宗教のように崇めている観念とも言えるわけだ
だから、この場合でも智恵理ちゃんのお父さんとお母さんは、決して智恵理ちゃんのことを悪く思うことはない、と神に誓って断言できるんだけども、それを智恵理ちゃんがどう受け止めるかってのは、もはや彼女の問題であって、それこそ不可侵なんだよなぁ
人は本当の意味でわかり合うことはできない、それはたとえ上述した家族間のことであっても、だ
嬉しさや喜びを共有して、それらのプラスの感情を二倍にも三倍にも膨らませるってことは、確かに可能なのかもしれない
けれどそれだって「わたしの身に起こったことなのに、相手がさも自分のことのように喜んでくれている」という思い込みから発生する単純で浅ましくもある愉悦からであって、二人の感情が真実シンクロしているかというと、別にそういうことではないと思う
そうすると、悲しみや寂しさを分け合って半分にする…なんてよくある歌の歌詞みたいなことには、なるはずがないんだよなぁ…
たとえば「相手が自分の立場に立って、寄り添ってくれている」という思い込みは、いくらか傷ついた心を慰める役には立つのかもしれないけど、根本的な解決にはならんよね
結局のところ、喜怒哀楽の怒や哀に該当する感情というのは、先っぽから根っこまで全部自分のものでしかなくて、自分でどうにかするしかない荷物なわけだ
とはいえ、時に人は自分だけで抱え込むには重すぎる荷物を背負い込むこともあるわけで
そういう時に支えてくれる他人というのは、気休めにしかならないとしても、大事なものだよね…
妹たちがみんな主人公と智恵理ちゃんの味方だということを、これでもかとわからせられて嬉しい
うちの妹ズは本当に、ほんっとうに、みんないい子なんだわ~
できれば、その会議の様子をこっそり覗き見させてほしかったところ
…それはそうと
例の事故(両親の件じゃないよ)、車道のどこにいたかまではわからんが、そんなとこで突っ立ってメール打ってた智恵理ちゃんにも問題があるとは思う…
さすがにドライバーさんが気の毒じゃないか??